お別れの挨拶

 四階建ての一番下。南側の窓の前には何本もの木がある上に、夏に驚異的に伸びてそのまま放置された雑草が窓の前でひしめき合ってる。おかげでどんなに天気のいい日でも、この教室は暗い。のんびり次の時間の実験の準備をしていると、体育館から「仰げば尊し」が聞こえてきた。
「明日か」
 今、体育館では三年生と二年生が卒業式の予行練習をしているはずだ。暦の上では春でも、まだまだ寒い時期ではなんだかピンとこなかった。
「あっという間だよな」
 自分自身、転勤でこの高校へ来てから三年が経とうとしていた。もし、自分が学生なら今一緒に、予行練習をしている事になる。もっとも、自分をそんな風に例えられる年齢ではないけれども。
 小さい頃感じていた時の流れに比べて、大人になってから感じる感覚は残酷なものだった。振り返る間もなく、いつの間にか色々なものが人生として自身に付随していく。学生期間を終えて、就職、結婚、そして子供が出来た。それらがないと不安になる年齢だけれど、逆にそれらが重く感じられる事もある。なんとも矛盾した話だ。
「先生」
 呼ばれると同時に、ガコッと背後で音がした。ドアを開ける音だ。レールに埃がたまっていて上手く開けれないのだ。なんだろうと振り返った。そこには、ひとり男子学生が立っていた。見た事のない生徒だ。彼は再び音を立ててドアを閉めた。
「どうしたんだい?」
 今は授業中だ。どうしてここに生徒がいるのだろうと思った。
「お話したい事がありまして」
 近づいてきて、近くの椅子に座る。その座り方がきれいだった。背もたれがない丸椅子に座ると大抵の生徒が猫背になってしまうのに、背中になにかはいっているのではないかと思うほど、ぴんと背筋がのびていた。見た目からも感じられるが洗練されている雰囲気を持っている。
「話を聞くのはいいけど、今は授業中だよ。どうしてここにいる?」
「体調が悪いと言って抜けてきました」
 自分をまっすぐ見ていた視線がつ、と体育館に動かされる。知らないと思ったら、一年ではなかったのか。今年度は一年しか授業を持っていなかったので知らないはずだ。
「なら、保健室へ行きなさい」
「行きますよ。その前に少しだけ」
 ね? と訊いているような小首の傾げ方がまだ残る少年らしさと合っていた。高校生とはなんとも不思議な生き物なのだろう。目の前の生徒のように、少年と青年の間のような子もいれば、自分とそう変わらないような外見の生徒もいる。年齢と外見があっていない人間はどの世代にもいるけれど、特に高校生に多いと思う。年齢的にも微妙なのだろう。
「僕ね、先生の事が好きなんです」
 水のように流れるような声は、告白する事になんの気負いもなかった。ただ事実を述べているような淡々とした響きだった。
「僕の事が?」
「ええ、先生の事が」
「ええっと……」
 言うべき言葉が見つからなかった。
「別に、返事はしてくれなくて結構です。否、という事は分かっているので」
 じゃあ言ってくれるな、と思う。言われた方はどうしたらいいのか、本当に分からないのだ。
「なんで、僕なんですか?」
 言わなければいけない事は沢山あると思ったが、気の利いた言葉はなにひとつ思いつかなかった。一番訊きたい事がつい口に出てしまっただけだ。
「一年の時、受けた授業が丁寧だったのが最初で、気になるようになりました。それから段々と気になって、一番好きなのは――優しいところです」
 一年の時。……この学校に来て始めての年だ。確かに担当学年以外もその年は見ていた。今の三年生も見ていたはずだ。しかし、目の前の生徒の事が思い出せない。思わずじっと見てしまう。
「あ」
 目を見て思い出した。中村だ。今年、どの先生も注目している中村。成績はトップで、全国模試の上位優秀者にも何回か名前が載っている。たしか一流国立大を受けていて、センターの判定ではボーダーは楽々越えているはずだ。
 たしかに、一年の時授業を受け持った。その頃の中村はまだ中学生が抜けきらないような子供じみた外見をしていたのだ。背はだいぶ低かったし、顔も子供っぽくて今みたいに凛々しくなかった。顔つきが変わってしまっても、目元が変わる事はなかった。
「誰か、分からなかったんですか?」
 目の前の顔は不服そうにしていた。無理もない。接点があった上に、学校では知らない人はいないくらいの有名人物だ。知らないほうがモグリだろう。
「大分、大人っぽくなっていたのでピンときませんでした」
「……確かに、一年の頃は子供っぽかったですけど」
 恥ずかしそうに言う。確かに日々すごい勢いで成長していくこの頃は昨日の事すら恥ずかしいのだろう。すっかり錆付いてしまった感覚だけれど一度通ってきた道なので想像はつく。
「今は立派な青年ですよ」
「ありがとうございます」
 照れているような曖昧な笑顔を向けてくる。そしてふいに立ち上がった。
「じゃあ、僕は保健室へ行きますね」
「あ、あの……」
 言うべきか、少し躊躇した。告白されたのだから、作法として返事をするべきなのではないのか。
「言わなくていいですよ。というか、言わないでください。分かっていても、断りの文句を聞くのはきついです」
「じゃあ」
 少しの間の後に言った。
「頑張って下さい」
 何をとは言わなかった。色々な事。全ての事。無限の可能性を秘めているであろう、青年にエールを送りたくなった。それだけだ。
「先生は優しいですね」
 再びガコッと音を立ててドアを開ける。これがドラマだったらコントになってしまうだろう。自分が通れるだけのスペースを開けた彼は振り返った。
「先生は、こういう生徒がいたと言う事だけ忘れないで下さいね」
 ガコッと音を立てて、ドアが閉められる。彼はもうドアの向こうにいた。振り返らないので表情は分からない。
「校歌だ」
 曲はいつの間にか校歌に変わっていた。仰げば尊しに比べて声が小さい。きっときちんとどの生徒も覚えていないのだろう。自分ももう母校の校歌など覚えていない。――校歌は覚えていなくとも、あの頃の青臭い思い出は今でも色あせることなく、すぐに記憶に箱から出せるだろう。

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