駅のホーム内にあるベンチに腰掛けた。服の上から胸元にある指輪を掴む。今頃になって恐怖が襲ってきた。指が震えているのが分かる。
 ――ごめんね。
 思い出すのは唐突だ。こんぺい糖みたいな小さなものがぽろぽろと、ポケットから零れるみたいに思い出す。
 ――好きになって、ごめんね。
 自覚したときの夜だった。眠れない夜。卒業式の日だった。もう会えないのかと思ったらもう駄目だった。布団の中でうずくまって、ひとりで懺悔した。
 謝罪は、貴広に対してで、懺悔の対象は自分の心だった。
自分の中に潜む、異質なものを受け入れなれない心、自信のない心、逃げる事しか出来ない心――弱さばかりの心に、それでも甘い恋愛がしたいと思う心。矛盾だらけで、わがままで、恥ずかしいと思ったけれど、願わずにはいられなかった。
告白して楽になりたいと思った。告白する事を頭の中で想像してみる。もしかしたら――という希望と、けどやっぱり――と思う絶望。そのふたつがせめぎあって爆発してしまいそうだった。この時ほど、友達でなければどんなによかっただろうと思った事はなかった。
 なんで、こんな締め付けられるような思いをするんだろう。こんな思いをしたくない。なら逃げてしまえ。そう思って、その場から逃げる事を決めたのは、他でもない、自分の精神力の弱さからだ。
 だから。
 今更な事だった。「もし」は存在しない。そこで、自分で向き合えなかった時点で、終わっているのだ。逃げたのだから、ドロップアウトしたのだから。今更、向き合えるようになっても遅いのだ。向き合えるようになったのは、時間があったからだ。時間は色々な物を変える。時間が解決できる事も沢山ある。けれど、それに頼ってはいけない。
 少なくとも、ひとを好きになる感情は生ものだからだ。
 その時に消化できていない時点で、段々と腐っていき別のものに姿を変える。その時々によって変わる姿はまちまちだ。たまたま、時間をかける事によって、朋輝の中の貴広は偶像になったけれど、それをずっと持ち続けるわけにもいかない。
 ――先に、進んでいるんだ。
 本人に自覚はないものの、貴広は先に進んでいる。朋輝はそう感じた。
 違和感は服装だけではなかった。貴広の訛りがなくなっているからだ。
 きれいな標準語を喋る人にしてみれば、貴広が喋るのも訛っているのかもしれない。だが、同じ訛りを持つ朋輝にはそれが分からない。それくらいには、きれいになっている。
 もともと、貴広の言葉は朋輝より酷かった。本人に言わせれば、おばあちゃん子だったから、らしい。時々、何を言っているかわからないくらい、酷かった。
言葉は自分の所属を表すのに、大切な意味を持つ。それは日本語という大きなカテゴリーから始まって、更に小さな地域へ。訛りは話すだけでその人の出身が分かるくらい、大切なものだ。それを捨ててしまえば、その地域にはその人がもういない気がする。
訛りを捨てるのは、そこから心が離れてしまっている、という事実を端的に表している様な気がした。
 変わっていくのだな、と思う。ずっと自分は、同じ仲間と同じところで背中を丸めてうずくまっていたいけど、そういうわけにもいかない。ちゃんと立って、歩き出さなくてはいけない。
――いや、もう歩き出している。
目をつぶる。鮮明に瞼の裏に焼きついているのは祐輔だった。
『まもなく二番に、列車が参ります。黄色い線までお下がりください――』
 乗る予定だった線には乗らず、今聞こえてきたアナウンスの路線のホームへと走った。
 構内に滑り込んできた電車に飛び乗る。早く行きたい。今、考えられるのはそれだけだ。



 夢を見ていた。
 なぜ夢だと分かったのかというと、自分が高校生だったからだ。
自分がいるのは、放課後の教室棟。通っていた高校は、特別教室と教室とが別の棟になっていた。特別教室ばかり入っている向こうの棟では文化系の部活が活動しているが、放課後になると教室棟は誰もいなくなる。遠くから、ブラスバンドの練習の音や、運動部のランニングの掛け声等は聞こえるが、近くで音は何もしなかった。聞こえるのは、カリカリとシャープペンシルが立てる音のみだ。
『駄目だ、終わらん』
 頭を抱えながら、明日提出の課題を貴広とやっている。やっているのは朋輝の苦手な数学で、なかなか進まない。
『やれよ』
『やなものは嫌』
 煮詰まって、シャーペンを机の上に投げた。背を反られると、背骨がバキッと音を立てた。体が凝り固まっている。
『でも、国立受けるんだろ?』
『受けるよ。その為に勉強してんだもん。でなかったら数学なんて勉強しんて』
『ほうか。じゃあ、やれ』
 分かっている事を諭されて、むくれる。
『ん』
 背もたれにかけていた体重をぐっと前に持ってくる。投げ出したシャーペンを持って、真面目にとりくむ事にした。色々言われるのは敵わない。
『朋輝』
 清潔感溢れる、低めの優しい声。その声に名前を呼ばれると胸が疼いた。
『なに』
 顔を上げると、唇に軽いキスが落とされた。すぐに唇が離れていく。
『たか……』
二度目のキスは、すぐ終わるものではなかった。長く甘いキスで、それを受け入れている自分の頭はぼうっとするけれど、どこか冷静な自分がいて、音には敏感になっていた。
『朋輝』
 もう一度名前が耳元で呼ばれたので、驚いた。キスをしているのに、耳元で名前が呼ばれたのだ。何かがおかしい。そう思った瞬間、ふっと現実に意識が戻った。


 温かいのは、布団か人肌か。
 狭いベッドの中で考えてみたが、答えは見つかるはずもなく、睡魔に引きずられて、再び眠ってしまいそうだ。
枕元の時計が見たかったが、長い腕は後ろから朋輝にからみつき、逃してくれない。明日、起きたときに体が確実に凝っていそうだが、別にたいした問題ではない、と思う。
耳元で「朋輝」と呼ばれた。起きているのかと思ったが、寝言だったらしい。どんな夢を見ているか考えるだけで、こちらが恥ずかしくなる。
 あの足で祐輔の部屋に行った時、何も言わずに、祐輔の唇にキスをした。軽くて甘い、バードキス。自分より背が高いひとにするのは大変だった。ぎゅっと抱きつき、つま先立ちをした。女優が映画のワンシーンでしそうなキスの仕方に、自分の背丈を悲しく思う。
『好き』
 いきなり夜中に来て、急にその言葉を口にする。冷静に考えれば、奇妙な行動な事この上ないのに、祐輔は受け入れてくれた。
 朋輝にとっては、とても重い言葉だったけれど、祐輔は知らなくていい事だ。言葉は発した本人のものではなく、受け取った側のものになる。祐輔が好きに受け取ればいいと思った。
顔を上げて笑おうとした。笑おうとしたのに、目じりが痙攣を起こして上手く笑えなかった。
『朋輝』
 自分とは反対に、バカみたいに崩れた笑顔。でも、いい顔だった。隙間なくしっかりと抱きしめてくれる。居心地のいいその場所に、朋輝は心から安堵した。ぎゅっと目を閉じると、涙が数滴、頬を伝う。
 ――バカみたい。
『祐輔』
 首からぶらさがったまま、朋輝は祐輔に体重をかけた。結果、バランスが崩れてふたりで倒れこんだ。
『したいよ』
 祐輔が欲しかった。どうしようもなく、愛おしかった。
性急に、朋輝は祐輔のジーンズの前ボタンを外して、チャックを開けた。中から祐輔を完全に取り出す前に、そこに唇を寄せた。
『朋輝』
 普段なら祐輔が名前を呼ぶだけで、何が言いたいのか分かる。声のトーンで判断できるくらいに、分かりやすいからだ。困惑しているのか、唐突過ぎて呆れているのか。けれど、今はそれをはかる余裕もなかった。
 少しだけ取り出したそれを、舐る。吸う。扱く。臨戦態勢になっている祐輔を見ただけで、達してしまうかと思った。
『あ、あ、あ、あ』
 膝立ちになり、そこに腰を落とす。その体位をする時は、いつも祐輔が支えてくれるのだが、支えを待たずに朋輝は祐輔を受けいれた。収めて、出して。揺すって、締め付けて。祐輔の上で、朋輝は狂ったように踊った。
 体を繋ぐ前に流した涙は、おそらく見られているだろう。けれど、祐輔は何も聞かなかった。ぐちゃぐちゃに交わったので、途中からは生理的に流していた。
 腕の中で向きを変えて、祐輔と向かい合った。じっと顔を見つめる。熟睡しているのだろう、規則的な寝息が聞こえてきた。
 ――バカみたいに、優しい。
 心が震えた。目を閉じると左目から涙が一粒、零れる。もう両目から流れるほどではなかった。
甘えるように、祐輔の首筋に顔をうずめる。抱きしめている腕の力が少し強まった気がした。それに安堵し、段々と深い眠りに落ちていく。

 明日は笑えますように、と願いながら。


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